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東京地方裁判所 昭和62年(ワ)2067号 判決

甲事件原告・乙事件被告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 蔭山好信

同 飯島悟

甲事件被告・乙事件原告 乙山春子

右訴訟代理人弁護士 伊藤憲彦

乙事件被告 丙川松夫

右訴訟代理人弁護士 田中俊充

主文

一  甲事件原告(乙事件被告)の請求を棄却する。

二  乙事件被告(甲事件原告)甲野太郎は、乙事件原告(甲事件被告)に対し、金一一五万円及び内金一〇〇万円に対する昭和六二年三月七日から、内金一五万円に対する昭和六三年三月一〇日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  乙事件原告(甲事件被告)のその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、乙事件被告丙川松夫に生じた分は乙事件原告(甲事件被告)の負担とし、その余は甲事件及び乙事件を通じてこれを三分し、その二を乙事件被告(甲事件原告)甲野太郎の負担とし、その余を乙事件原告(甲事件被告)の負担とする。

五  この判決の第二項は、仮りに執行することができる。

事実及び理由

第一請求の趣旨

一  甲事件

甲事件被告(乙事件原告)乙山春子(以下原告乙山という。)は、甲事件原告(乙事件被告)甲野太郎(以下被告甲野という。)に対し、二〇〇万円及びこれに対する昭和六二年三月七日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  乙事件

被告甲野及び乙事件被告丙川松夫(以下被告丙川という。)は、各自原告乙山に対し、四六〇万円及び内金四〇〇万円に対する昭和六二年三月七日から、内金六〇万円に対する昭和六三年三月一〇日から、各支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

被告甲野は、虚偽の投書により名誉を毀損されたところ、私的筆跡鑑定によりその犯人は同じ会社に勤務する原告乙山であることが判明したとして、これに慰謝料及び訴状送達の日の翌日以降の遅延損害金の支払いを求めた。

これに対し、原告乙山は、右の筆跡鑑定をした被告丙川が極めて独断的恣意的な鑑定をして原告乙山を投書の犯人であると断定し、その鑑定書を被告甲野に交付したが、右は故意又は重大な過失による不法行為に当たるとして、また、被告甲野が原告乙山に事実を問い質すこともせず、軽率にも右の鑑定を唯一の根拠として原告乙山を真犯人と決めつけ、いきなり訴訟(甲事件)を提起したのは過失による不法行為であるとして、慰謝料四〇〇万円及びこれに対する不法行為以後の遅延損害金並びに支払約束をした慰謝料に対する一五パーセントの弁護士費用六〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日以後の遅延損害金の支払いを求めた。

一  争いない事実及び証拠により認められる事実

1  被告甲野は、昭和六一年一二月当時、半導体試験装置を取り扱う株式会社チェリー(以下チェリーという。)の管理本部の人事総務部人事課長の職にあり、家庭には、妻と長男があった。

原告乙山は、同年三月乙田大学文理学部を卒業して同年四月チェリーに入社し、約一週間の新入社員研修を受けた後、約二か月間社長室秘書課に勤務し、その後営業管理部海外業務課に勤務している。以上は被告丙川を除く当事者間に争いがない。)。

被告丙川は、丙川筆跡印鑑鑑定人事務所の名称で筆跡等の鑑定を業としている(争いない)。

2  昭和六一年一二月一六日、チェリー経理部の独身の一女子社員宛てに匿名の投書(以下第一の投書という。)が郵送され、それには、K(被告甲野のイニシャル)氏と同女との交際の噂が流れており、二人の行動が大胆になってきている、同女の昇格を知り、それは許されるべきでないと考えている、同女が身の処し方について明確にしなければ、K氏が同女のマンションを訪ねたときの調査レポートを社長はじめ関係者に送付する等の趣旨が記載されていた。

3  昭和六一年一二月二一日、チェリーの副社長宛てに匿名の投書(以下第二の投書という。)が郵送され、それには、被告甲野と前記女性社員とが愛人関係にあり、このことは皆知っている、同女が昇格したのは人事課長が自分の愛人の昇格を認めたためであり、このままでは皆士気沮喪する、人事課長は社内の女性に対し自分の女になればマンションの一つや二つ買ってやる等と言って口説いており、人事担当として問題があるから手を打つべきだ等の趣旨が記載され、調査レポートらしい書面が同封されていた。

4  チェリーにおいては、投書を受けた副社長の指示により、右の投書事件について労務管理上の問題として調査することとされ、これを人事課長の被告甲野が担当することとなり、チェリーが従来調査等を依頼しているレーバーコンサルタントなる会社に筆跡鑑定による調査を依頼し、その際、比較対象の鑑定資料として、チェリーの取締役総務部長の丁原竹夫の助言等を参考にして、投書に関わったのではないかと目された女性の仲よしグループ五、六名の採用時の入社試験の答案等を抽出して交付した。

5  レーバーコンサルタントは、昭和六二年一月一〇日、本件投書等の筆跡鑑定を被告丙川に依頼したところ、被告丙川は、同月一七日右の鑑定を終え、鑑定資料のうち原告乙山の入社試験の答案の筆跡と本件投書の筆跡が一致するとの結論を出し、その趣旨を記載した鑑定書をレーバーコンサルタントに交付した。

6  この鑑定の結果を得た被告甲野は、同年二月一〇日訴訟代理人に訴訟を依頼し、同月一八日、本件訴訟(甲事件)を提起し、右の訴状は同年三月六日原告甲野に送達された。

二  争点

1  本件投書は、原告乙山の筆跡によるものか。原告乙山の不法行為が成立するか。

2  被告甲野の甲事件の提起は、不法行為となるか。原告乙山の損害額はいくらか。

3  被告丙川の鑑定及び鑑定書の交付は、原告乙山に対する不法行為となるか。

第三争点に対する判断

一  争点1について

1  被告丙川は、その筆跡鑑定書及び鑑定人山田重男の鑑定結果(以下山田鑑定という。)に対する反論筆跡鑑定書(以上を以下丙川鑑定という。)において、原告乙山のチェリー入社試験の答案(以下答案という。)の筆跡と本件各投書の筆跡とを数多く比較対照し、原告乙山の固有の筆跡と目すべき「希少性」及び「常同性」を具えた「個有筆癖」の符合し一致する箇所(「符合一致点」)が多数認められ、固有筆癖の重要な相違点は認められないとして、右の両者の筆跡が一致すると鑑定している。

2  しかしながら、丙川鑑定においては、例えば、「課」の文字について、第一画はいずれも打込み角度がやや垂直であることに固有筆癖が認められるとしているが、答案の「課」の第一画は、左斜上方から打込まれて右斜下方にやや垂直に運筆されているのに対し、第二の投書の「課」の筆跡の第一画は、逆に右斜上方から打込まれて左斜下方にやや垂直に運筆されており、これをもって固有筆癖の一致と認めることには疑問がある。また、同じ「課」の文字の第一五画について、丙川鑑定は、いずれも運筆の位置、方向及び湾曲度が共通することに固有筆癖が認められるとしているが、答案の「課」の第一五画は、一三画の一二画との交点より下の部分の中ほどから起筆され、やや水平ぎみに殆ど湾曲することない「投条線」として記載されているのに対し、第二の投書の「課」の一五画は、第一二、一三画の交点の近くから起筆され、水平方向から右斜下約三〇度の方向にやや湾曲して運筆されており、これも固有筆癖の一致と認めることには疑問がある。加えて、「課」の第五画ないし第七画により形作られる「口」は、答案のそれは逆台形に近いが、第二の投書のそれは、第七画自体を省略した逆三角形に近いものであり、顕著な筆癖の相違点が認められる。

同じく、丙川鑑定によれば、例えば、「な」の文字について、第四画には、いずれもその第二筆の湾曲度とその終筆方向に固有筆癖が認められるとしているが、答案の「な」の第四画の終筆方向は、右上方に跳ね上げられているのに対し、第二の投書の「な」については、第四画の第二筆は第一筆と交差した後右下方向へ回り込み、ほぼ「の」の字様になっており、固有筆癖の符合一致とは認め難い。

その他、丙川鑑定においては、そこに指摘される固有筆癖の符合一致点なるものには、その該当部分そのものについても、また他の部分との関連においても疑問点が多く、逆に相違点については、固有筆癖の重要な相違点は認められないとの一言で片付け、これを個別に指摘することすらされていない。

3  鑑定人山田重男の鑑定の結果(以下山田鑑定という。)によれば、原告乙山の答案の筆跡と本件各投書の筆跡とを、「女、文、理、美、な、過、課、的、以、要、が、急、ド・ト、近、社、様、場」の各文字について比較対照し、「女、理、な、要、急、ド・ト、社、」の各文字については、文字の一部に共通した点が指摘されるが、それは字画の形態、長短等に関するものであり、それらは、別人が記載した場合であっても同様共通する部位に現われることが多くあり、その範疇に属するものであって、筆者固有の希少性の高い特異なものではなく、これらをもって対応する筆跡が同一人により記載されたとするには、根拠として極めて薄弱であるとし、逆に、各対応する資料の同一字画の筆跡には、偶然とは思われない顕著な相違が極めて多く認められ、特に、答案と各投書の中の「な、的、以、近、場」の文字等の字画構成、運筆の方法その他の個性は著しく異なって記載されており、同一人の筆跡とするに有力な共通性が発見されず、以上の相違点は、同一人の書字の偶然性や意識的な変化によるものではなく、別人の記載した筆跡であるが故に必然的に現われたものと判断するのが客観的にも自然であるとし、答案の筆跡と本件各投書の筆跡とは別人により記載されたものであると結論づけている。

また、山田鑑定は、右同様の検討をして、第一の投書と第二の投書について、これらも別人の筆跡によるものであるとしている。そして、第一の投書が三〇〇字以上からなり、そこに五回以上頻出する同一の仮名文字(一九)どうし筆跡は相互に酷似し、同じく第二の投書が五〇〇字以上からなり、そこに五回以上頻出する同一の仮名文字(三〇。うち一三文字は一〇回以上頻出する。)どうし筆跡は相互に酷似しており、かつ、第一の投書の仮名文字と第二の投書の仮名文字と筆跡があまり似ていないことからも、右の山田鑑定の結果が首肯される。

4  ところで、原告乙山は、昭和六一年四月の学卒新入社員であり、本件投書で問題とされた女性社員は一〇年以上先輩であって、所属する部局も異なり、原告乙山が同女の昇進昇格に全く利害関係は認められず、これに対する妬み、嫉みと無関係であり、怨恨をもつ関係にもなかったことが明らかであるし、原告乙山が本件投書に関与したことを疑わせる事実を認めるに足る行動についての関係者の証言もない。かえって、被告甲野が本件訴えを提起し、訴状が送達された日に、これを受領して驚いた母親からの電話でその内容を知った原告乙山が、仰天して即刻被告甲野の席に駆けつけ、同人が離席していることが分ると、丁原総務部長の席に行き、同人ほかの前で、そこに呼ばれた被告甲野に対し泣いて訴え、抗議をしたことが認められる。なお、被告甲野は、右の抗議に対し、科学的根拠があってしたことだ等と答え、取り合わなかった。

5  2の事情に加えて、丙川鑑定は、本件の各投書は、いずれも投書者が他人の筆跡を真似たか、自己の筆跡を故意に隠蔽して記載したものであり、「故意の隠蔽努力に依る変形文字となっている」との前提をとっており、微細な点に現われるとする固有筆癖の符合一致点が多数あることのみにより各投書の記載が原告乙山の筆跡と一致するとしたものである。しかし、その固有筆癖なるものも、同じ文字を他の者が記載した場合でも往々認められるものであり、右の固有筆癖が認められるとする文字そのものの他の部分に、筆癖の相違するところが多々認められるのであって、逆に固有筆癖の相違点の集積が認められると言わなくてはならない。被告丙川は、右の筆癖の相違点の重要性を否定し、本人尋問において、「大確信をもって鑑定書を出した」と供述しているが、丙川鑑定は、まさに、木を見て森を見ずの鑑定であるとの謗りを免れず、これをもって本件各投書の筆跡が原告乙山の筆跡と一致するとの証拠とすることは到底できない。

そして、3及び4の事実を総合すれば、本件各投書は、原告乙山が記載したものではないと認めることができるところ、原告乙山が本件投書を投函したとの事実は認められない。

二  争点2について

1  被告甲野は、原告乙山が被告甲野と前記女子社員との噂話をしていたとされる他の女子社員らと仲よしであったとの風聞だけを頼りに、まずこの仲よしグループに属すると目される者の入社試験の答案等を抽出し、それらを対照資料として筆跡鑑定を依頼し、これにより得られた丙川鑑定の結果だけを根拠として、原告乙山の弁解を聴いたり、周辺の事情及び投書と原告乙山とを結びつける状況証拠を十分に確認したりする等の措置を講ずることなく、右の筆跡鑑定で名指された原告乙山を投書の犯人と断定し、いきなり不法行為を理由とする損害賠償請求訴訟(甲事件)を提起した。

2  ところで、筆跡鑑定は、経験科学として有用であることは否定できないが、いまだ鑑定人の経験と勘に頼るところが大きく、本件に見られるように鑑定資料の母集団からの抽出が恣意的になされたようなときは、場合によっては、結果的に誘導的な又は迎合的な鑑定結果が得られる虞も否定し得ない等、その科学的根拠及び証明力の点においては、生得の終生不変の指紋及び抗原抗対反応等で常に確認することのできる血液型、形の変化に乏しく安定性のある歯型並びにこれらに関する鑑定等との比較において数段低いものであるから、十分な増強証拠のないまま筆跡鑑定の結果を唯一の証拠として犯罪行為を認定することは許されないのであり、たとえ一般人であったとしても、十分な補強証拠のないまま筆跡鑑定の結果を唯一の証拠として他人が犯罪を犯したと決めつけるとすれば、そのこと自体に重大な過失があるといわなくてはならない。

右の観点からして、被告甲野の右1の行為は軽率の謗りを免れず、原告乙山は、右のとおり被告甲野から本件投書の犯人と指摘され、その責任を追及され、名誉を毀損されたのであり、一の4の事実に照らしても、これにより精神的苦痛を受けたことは明らかであるから、被告甲野は、原告乙山に対する過失による不法行為に基づく損害賠償責任を免れない。

3  原告乙山の慰謝料は、一〇〇万円をもって相当と認める。また、弁護士に対する報酬支払約束も相当の範囲のものと認められるから、その額は一五万円となる。

三  争点3について

本件において、被告丙川は、筆跡鑑定業を営む者として、レーバーコンサルタントからの依頼により、自己の知識経験及び技法をもって筆跡鑑定をしたのであり、その過程において、原告乙山を含む筆跡鑑定の対照資料の記載者に対する害意は認められない。また、筆跡鑑定の結果については、前記のとおり、利用者においてその科学的根拠及び証明力の点に留意して使用するべきものであるから、鑑定人がその職業倫理に悖ることなく誠実に鑑定をした以上、その鑑定結果が採用できないものであるとしても、格別の事情のない限り、その行為をもって鑑定の対象者又は鑑定の結果に利害を有する者に対する関係で過失による不法行為となるものではないというべく、本件において右の格別の事情は認められない。

(裁判官 久保内卓亞)

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